韓国の日本大使館前の路上に、従軍慰安婦をモチーフにした銅像が建てられ、この問題で、政府は、1965年の条約で既に法的には終わっているとした見解を述べ、野田総理は、何らかの措置を取る可能性に言及したが、この立像については撤去を求めた。
この従軍慰安婦問題を取り上げると、必ず、下記の反論が寄せられ、堂々巡りになるので、ここでその反論に対してお答えする。
以前にも詳細な資料に基づいて、慰安婦問題と南京事件については、書いているので、はっきり言って面倒臭いのだが、どうも一部保守系論客などが、世論を誘導するのも目的に確信犯的な暴論を主張して、ネット右翼と言う戦争を知らないあるいは、知る術の無い若者を中心にミスリードしていると感じる。さらにごく一部だが、国会議員の中にも、従軍慰安婦の存在そのものに対して否定的な論をお持ちの方が少なからずいるので、その議論が出るたびに日韓で不毛な論争を引き起こす切っ掛けになっている事が、極東の安定に逆の効果を齎していると感じる。
まず、寄せられる反論について簡単に書いてみる。
1、従軍慰安婦は、軍が直接関与したのものではなく一部悪質な民間業者
女衒によって集められ、当時許可されていた遊郭経営者が管理運営した
もので、軍がひいては、国家が行った事ではない。
2、慰安婦は、玄人の女性(売春婦)が自らの意思であるいは、その保護者に
よって売られたもので、当時の法律に違反した行為ではない。つまり人権
侵害ではない。
3、戦後、韓国で現れた元従軍慰安婦の中には虚偽の申告をしたものが少な
からず存在し、それらの虚偽申告は、すでに明らかになっており、偽物で
ある。
4、朝日新聞が60年代に取り上げた根拠となった、軍関与の資料については、
それを取り上げた日本人が、偽情報を提供したもので、直接強制的な連行
あるいは徴用は、無かった事が証明されている。
5、軍隊は、あるいは政府は、この従軍慰安婦制度を、直接運営管理してはお
らず、民間業者へ、軍がその料金を支払ったもので、そこで働く女性には、
それ相応の対価を支払っている。
大きく分けると、この様な反論が寄せられているのだが、これらは、既に、歴史学者の間では、既に決着のついた問題である。その決着とは、軍が直接管理運営し、女性を集める行為も軍が直接行っていた。これらの証拠は、既に公文書や資料が少なからず存在し、確定したものである。
また、現在、我が国が主張する国家賠償に関わる条約、1965年に締結された日韓条約により、既に個人的な損害賠償責任も存在しないと言う見解についても、ここで、明確に国際的な解釈も述べてみたいと考えている。ただし、前にも述べた様に小生は、法律の専門家でもないし、国際法が、何処まで解釈されているかなど、法理に関わる知識は、持ち合わせていないので、あくまで小生個人の集めた情報によって、その情報をそのまま、記する事にする。
まず、大きく分けた5つの反論だが、これにお答えする。この5つの反論には、明確な間違いが存在している。
従軍慰安婦と言う言葉が、戦後作られたと言う造語であるとする指摘だが、これは、全くの間違いである。60年代に朝日新聞が取り上げた時に朝日新聞が作った造語であるとする、反論は、その時点で誤りで、50年代に週刊現代が、「従軍慰安婦」についての記事を特集した折に既に使っており、それ以前から存在していた事は、ほぼ間違いが無い。小生の個人的な経験で言っても、祖父が、この言葉を戦前から使っていた事を記憶していた事もあり、正式な言葉ではなかったかもしれないが、言葉として戦前から存在していた可能性が高い。
さて言葉としての従軍慰安婦は、さておいて、まず、軍が管理 運営、あるいは、募集に関わる直接行動を取ったか取らなかったか、であるが、これも、既に多種の公文書によって証明されている。
これは、小生が発見した資料ではなが、京都大学文学部史学科永井教授による論文に掲載された、徳島県警による資料(旧内務省資料)によると、昭和13年に徳島県で、許可の無い女衒(当時の女衒は、内務省による許可を得た者だけが行える資格業務であった)もぐりの女衒と言う意味である。二人の女衒が、徳島県内の農村で数名の女性(19歳から20歳)を募集し、保護者に金銭を支払った。これは当時、違法行為であり、取り締まりの対象とされた。逮捕拘留された二人の女衒は、「陸軍からの命で行った行為であり違法ではない」と主張した。これにより、当時の徳島県警は、旧内務省に伺いをたてた、その結果、旧内務省は、陸軍省に照会、その事実を確認したが、軍に対して「日本国内で、この女衒行為は、内務省の許可による権益であるとして正式に抗議した」とされている。この時に陸軍は、特別に許可を与えた訳ではないとして、その後、それら陸軍の名前を使っての女衒行為をしてはならない旨の内容を命じたと内務省に報告している。
現実に二人の女衒は、数日で釈放され、これが陸軍による女衒行為であった事は、事実であると判明している。しかし、当時の法律では、女衒が集めた売春婦は、国外には移動してはならないとされており、当時の韓国は日本に併合されていた事もあって、韓国の売春宿あるいはキーセン宿に売り渡す事は合法だったが、満州やその他、諸外国に移動させる事は認められていなかった。
軍が求めているのは、あくまで最前線基地での慰安婦であり、日本国内ではない。つまり、当時の法律でも従軍慰安婦は、違法であった事が既に報告されている。
元々、従軍慰安婦を求めたのは、陸軍ではなく海軍であった。それは、当時我が国の租借地である青島(チンタオ)にあった海軍基地で、陸に上がった水兵たちが、地元にある売春宿で買春をして、性病を感染させられ、長期に渡って入院せざるを得ず、中には、運行そのものに支障をきたした軍船があり、これを重く見た海軍軍令部は、国内の売春宿経営者に基地近くでの営業を求めた事に端を発する。しかし、国内の売春婦で諸外国まで売春を行いに行く女性は、高齢なものばかりで、しかも少なからず性病に罹患しており、海軍軍令部は、若い女性で、未経験者を求めた。しかし、諸外国に女衒が売り渡す事は法律で厳しく禁止されており、集める事ができずに、軍関与の女衒たちは、日本国内での募集を徐々に諦めて、半島に移動して行く事になる。
この折に朝鮮総督に対して、国内法を緩和して売春婦の国外売り渡しに関与させる。これを内務省は黙認する。慰安婦たちは、満州経由で最前線の送られたのである。これを国家関与が無かったとする、一部保守系論客たちはどう反論するのだろうか?できるはずはない、全て公文書に記載された事実であるからだ。
更に、強制は無かったとするのも、既に否定されている。これも内務省におよる公文書記録から、当時の朝鮮半島は、我が国領土であるから、国内法が適用されており、その中で、警察の日誌の一部が残されている(大半は敗戦時に焼却処分されているのだが、奇跡的に残されたもの)これに駐在所の日誌があり、その中に、陸軍の許可を得た女衒が、村を回ったが、何処の家も扉を空けず、ノルマを達成できないとして駐在所に相談、駐在(日本人)は、それらの家々を回り、ドア口に経ち、警察である、ドアを開けろと命じる、当時の警察は、大変に恐い存在であるから、当然、農民はドアを開ける、すると警察官は、中には入らず、ドア口で立っていると女衒が「天皇陛下の皇軍が、若い女性を求めている。」と大声を出すと、その恐さに娘を差し出す。これは、強制とは言えないが、半ば強制であることに異論はあるまい。
次に、もし従軍慰安婦が軍隊の正式な管理で移動させられていれば、その名簿が残されているはず、とする反論にもお答えしておく、確かに看護婦などの軍属は部隊編成が為されているから、記録が残されている場合が多いのだが、慰安婦に関する移動記録は存在しない、しかしここが、トリックである。彼女たちは、人間として送られたのではなく、兵站として移動させられたのである。これは、現在の防衛大学校の資料に、当時の駆逐艦や巡洋艦、あるいは、輸送船などに存在する送付物資の記録などに散見している。「ウメ、タケ、ハナ」と言った女性の名前が記録にあるのだ。つまり彼女たちは、物資として輸送され、戦地へ送られたのである。当然、部隊ではないし、正式な存在ではなかった事が伺わせる。
更に、中野陸軍軍医中尉による日誌や、毎日新聞社などの検閲による掲載禁止写真などにも基地内にある慰安所の映像が残されており、その中に憲兵隊が管理し運営していた様子が残っている。更に中野氏に日記には、書くにも憚られるそれらの女性の細かい内容が詳しく書かれており、これは既に出版されている。
これらの状況から、軍や国家の関与は、疑いの無い事実であり、強制的な連行や徴用に近い募集の事実も記載がある。
また、当時の売春婦の売り買いの相場を最後に記しておく。吉原と呼ばれた当時の我が国では一番格式の高かった場所では、200円から300円が相場で、その他、日本国内でも200円前後である。朝鮮半島の場合で、釜山やソウルなどのキーセン宿などの場合で、100円から200円である。もしわが娘を苦界に沈めなければならないとすれば、国内のこれらの地に売った場合、相当の金銭が手に入るのに対して、最前線に送る従軍慰安婦の場合、許可を得た女衒が買い取り使った前渡し金は、20円前後で、これは当時の家政婦などの一ヶ月分の給与でしかない。つまり、戦後出てきた、高級将校宅での家政婦として、あるいは軍属として洗濯婦や下働きなどで募集した事は容易に想像できる。
更に、当時の国内法で18歳未満の売春婦の募集はできないと厳しく制限されていたのに対して、朝鮮半島から送られた慰安婦の過半数が15~16歳であった事も鑑みると、これは、売春婦として募集したと言うより、寧ろ下働きとして前渡を受けて応募に応じたとする方が遥かに合理的である。
ただし、これらの記録は現在のところ発見できていない。何故ならば、敗戦時に殆どの公文書などを焼却処分しており、公文書にないからと言ってそれが罪を逃れるいい訳にはできないと考えている。
この様に多くの資料や公文書が残されているからこそ、我が国政府は、強制的に徴用し、苦界に未成年の少女を送った事を認めているのである。更に史学者の間では既に決着のついた過去の問題であり、これを何らかの意図があってミスリードしているのが、保守系論客と右翼たちの姿である。これは歴史という学問に対す冒涜であり、また日本人として卑劣で卑怯な態度であると断じる。
また、政府間で取り交わされた国際条約が、そのまま個人の賠償責任を回避できるかに対して、ドイツでは、妨げないとして、基金を作って戦後も賠償を続けている。そらが法的に正しいかは、小生には判断できないが、人間として、これらの賠償問題に政府は真摯に取り組むべきではないかと考えている。