2015年最初のブログは、昨年の12月6日、明大紫紺館(旧小川町校舎)で開かれた「土屋源太郎さんを支援する集い」の報告である。
土屋さんは1953年に明治大学に入学され、明大中執委員長、都学連委員長、全学連書記長を歴任された。1957年の砂川闘争で逮捕され、「伊達判決」で無罪になったが、その後の最高裁で差し戻しとなり、差し戻し裁判で有罪となった。
土屋さんは現在、「伊達判決を生かす会」の共同代表として活動され、砂川事件最高裁判決無効を求める闘いを中心となって担っている。
今回の集まりは、今までの土屋さん闘いを支援するとともに、1953年に明大学生運動が始まって以降、60年の歳月を振り返るという趣旨で開催された。
今週と来週の2回に渡り、この「集い」の概要を掲載する。
今週は前半の土屋源太郎さんからの報告である。
司会はY・R氏。今回の集いの趣旨と会の進行について説明があった。
「今回の集まりの趣旨は、皆さんにご案内したとおりです。土屋源太郎さんは今でも闘っておられますので、土屋さんを支え、あと砂川闘争から60年経ちますので、この60年間を振り返ってみようという趣旨で開催しました。
選挙があったり、暮だったり、風邪などでちょっと集まりが悪いですが、50名近くの方に集まっていただきました。本当に有難うございました。
今日は最初に土屋源太郎さんから、土屋さんが今闘っておられる闘いの報告を含めて30分ほど、その後、学費闘争に関してKさんに発言していただきます。70年代の全共闘運動について、生田で活動していたWさんの発言を受けます。そのあと、二部の方からも発言を受けて、懇親会に移ります。
懇親会の後、皆さんから活動の報告など発言を受けて、最後にインターと校歌を歌って閉会とします。
では土屋源太郎さん、お願いします。」
土屋さんから、明大時代の学生運動の状況と砂川闘争、そして現在行っている砂川事件最高裁判決無効の裁判について報告があった。以下、報告の要約を掲載する。
【土屋源太郎さんからの報告(要約)】
「私が明治大学に入学したのが1953年です。当時の明治大学は皆さん想像できないかもしれないが、ひどかったんだ。例えば生田の学生が小田急線の中でションベンしちゃったとか、体育会の合宿所で出前を運んで来た女の子を暴行しちゃうとか、暴力団系の学生が結構いて、そいつらがパーティー券を暴力的に脅かして売りつける。とにかく新聞の三面記事に明治大学がものすごく載ったんです。
その背景としては、当時の明治大学は残念ながら教育というよりは学校経営が中心で、いかに儲けるのかということだった。理事とか評議員の中に、暴力系や右翼系の人間が結構いた。その連中が支配していたために、良心的な教授などが排除されて発言できないという状況が現実にあった。
1952年に、商学部がそれに反対してストライキやるということになって、それがきっかけで学内浄化運動が始まったけれど、理事会側がのらりくらりで、入学の時には不正入学、大教室に詰め込みですよ。それから教授がアルバイトをするので休講を平気でしてしまう。それから教科書は使い回し、少し内容を変えて毎年それを買わせる。買わないと試験に通らない、そういう状態だった。
学生会はあったが、学生会としての自治の機能が働いていない。法学部、商学部、政経学部という中心学部が、ほとんど学校寄りで、中央執行委員会が学校側とボス交をやっている、そういう状況だった。
そういう状況の中で、このままにしておけないという声が広がって、1953年の6月に学生大会があり、不正入学反対とか理事会・評議委員会を変えろとか12項目の要求を出すと同時に、そういう学園民主化運動をする以上は他の大学との連携も必要だということで全学連加盟が可決された。全学連は国立大が中心だったが、明治が加盟するということで、私学が結構加盟した。
学生大会で、12項目について回答しなければ全学ストに入るという決議がされ、僕もクラスの闘争委員に参加した。それが僕が学生運動に関わる最初だった。4月1日の全学ストはうまくいった。それに対して暴力学生が暴力を振るうということはあったが、最終的に教授会が仲介案を出して、それを理事会が飲むということでストが中止された。
それと併せて保守的だった学生会が崩壊するという状況になって、学生中心の自治活動に変えるということになった。僕は1年生だったが、法学部の執行部改選の時に事務局長になった。明治の場合は、そういう経緯があったから自治会という名前が使えなかった。学生会だった。だから書記長ではなくて事務局長。そういう状況で中執も変わっていく。全学連に加盟することによって明治も非常に大きく運動自身が変わっていくきっかけになった。
全学連加盟によって全学連の中央委員にもなって、外ともいろんな関係ができる。その年の12月に共産党に入党した。共産党に入党して分かったことは、全学連の中央執行委員はほとんど共産党員という状況で、共産党の影響力がものすごくあったことだ。
54年くらいから、共産党内部の分裂からいろいろ問題があって、55年の六全協が出る前で、共産党としても今までの極左冒険主義に対する批判が出て来て、学生運動そのものも政治主義ではなくて、学内のより良き学生生活、これをテーマにした運動になっていった。当時は歌って踊って平和というおかしな状況になるが、一方で原水爆禁止の運動が始まる、そういう状況で54年に明治で全学連の平和集会をやった。ただし、これは歌って踊ってが中心。54年から55年の初期には、原水爆禁止の運動や原爆実験への抗議行動に明治から大量の学生が参加した。その背景にはサークル活動が基本にある。社研とか論潮とか民主主義団体協議会のサークルが非常に強かった。それと法学部、文学部、経営学部が中心になって運動を進めていた。商学部、政経学部、農学部は学生運動は学内に絞るべきという依然として保守的な傾向があった。そのため、学生大会になると、全学連加盟によって運動が政治的になりすぎるという問題が出されたが、我々としては当然、政治的な課題に取り組んでいかないと学生運動も学生生活そのものも守って行けないという主張をした。54年の秋に中執の事務局長になり、55年の秋に中央執行委員長になった。
当時、共産党の影響力は非常にあったから、中執委員長になった時に、僕は共産党の明大細胞のキャップをやっていたし、千代田区の地区委員会の学対責任者でもあった。
しかし、党との間ではいろいろな問題があって、絶えず矛盾を感じていたというのが実態です。ですから、55年の砂川闘争は全学連は全然関わっていないです。そういう方針でいたから、鈍かったんです。その一方、原水爆反対運動では街頭で激しい蛇行デモなどやるんですが、砂川闘争には参加しなかった。
ただ、明治大学というのは、当時、蛇行デモをやると頭か尻尾なんです。そういうつらいところを引き受ける。当時の明大の学生運動は周りからも信頼されていたし、力も付いてきた。
55年の砂川闘争は、立川の米軍飛行場を原爆を搭載した飛行機が離着陸できるように拡張するための土地収用が決定されて、それに反対する地元農民が中心となって反対運動を展開した。55年闘争の時に、警官による暴行や反対運動に対する切り崩しがあって、反対同盟の中の動揺が広がった。そういう状況を受けて、反対同盟の中から、この際、全学連にも支援を要請する必要があるということで、56年の春に全学連に要請があった。
たまたま56年に全学連の体制が変わる。55年末から56年にかけて全学連の体質改善が進んできて、香山などが中執委員にいて、僕が中央委員でいた。そういう中で砂川闘争が始まった。我々は55年に闘争に参加しなかったことを非常に反省して、56年の闘争に取り組んだ。
明治でもクラス討議や、いろんなところで討議を重ねて支援した。大変な動員力があった。56年は僕が明大の中央執行委員長だったので、闘争にずっと取り組んで行った。56年の闘争は千人からの流血があったが、最終的に測量中止に追い込むということで勝利した。56年の闘争が10月にあったが、その秋から全学連内部の抗争が始まる。全学連が砂川闘争で新聞とかいろんなことろに出る、地元や総評から評価を受けるということで、全学連内部から『砂川闘争は総評の手のひらで踊らされた』という批判が出て来て、それに対して党中央が、どちらかというと批判する側に肩入れしてきた。そういう抗争があって、何とか改選しなくてはいけないということで、57年1月に僕が都学連委員長になった。56年は明大全体の闘争と、全学連中央委員として現場闘争に関わったが、57年は都学連委員長として現場指揮の責任を執る形で闘うことになった。
57年は基地内の土地の強制収用なので、基地内に入って抗議行動するということを基本方針として持っていた。前の晩の戦術会議で総評から『明日は中に入りませんよね。強行突破しませんね。』と言われていたんだけれども、『できるだけ状況を見ながら慎重にやります』と答えながら、実際には夜中から工作部隊を出して、柵がすぐに倒れるように作業して、当日、突っ込んだ。
我々が突っこめば、スクラムを組んでいるので、皆そのまま突っ込むだろうということで、案の定、皆突っ込んだ。後で考えれば、学生は身軽でいいが、、起訴された労働者は首になったり大変な思いをした訳です。入ったことによって、1月の時点では杭を打つことも出来ずに、双方別れた。ところが9月になって逮捕されるという状況になった。57年に起訴されて、59年の3月30日に伊達判決が出て、米軍駐留は憲法9条違反という事で無罪となった。
この、57年58年というのは全学連にとっても大変な時期だったし、明治も大変だった。僕が都学連委員長に出てくという状況の隙を突いて、右翼系の連中を中心とした連中に中執が乗っ取られた。商学部、政経学部、農学部、工学部そして経営学部の一部が結託した。このままでいったら、全学連へ加盟しないとか、学内闘争が否定される状況になってくる。そこで学生大会で、会計の使い込み問題があり、それをネタにして罷免決議をしたら、執行部が全員総辞職した。本来は中執で委員長など執行部を決めるのに、その場で決めた。それに対して体育会や応援団が記念館に座り込みをするなど妨害をして、学生大会が開けない。一方で、全学連と共産党との間の抗争が始まる。58年6月に全国学生党員代表者会議が代々木の党中央で開かれて、僕が議長になって進行をするのを党中央が認める認めないで、グチャグチャになって、最終的に我々が会議を乗っ取った形になった。共産党中央執行委員の罷免決議までやった。それで僕は査問会議にかけられたりして、最終的に除名された。
当時の共産党がおかしかったのは、例えば原水爆実験に対して、アメリカの原水爆実験は汚い、けしからん、ところがソ連の実験は綺麗な実験だと言う。馬鹿言うな、原水爆実験に綺麗も汚いもあるか、そんなことも含めていろんな政治課題で対立し、全学連大会においては、特に教育大学や早稲田の一部の妨害によって揉めにもめた。そういう状況があったため、どちらかというとそっちに精力を取られていた。
59年の3月30日に伊達判決が出る。伊達裁判長が主文で無罪と言った時は、本当に頭の中が真っ白になった。それから理由について述べて読んで行くうちに『すごい。こんな裁判長がいるのか。』と思った。しかし、最高裁に跳躍上告になって、12月16日に一審判決破棄・差し戻しの判決が出て、差し戻しの裁判で二千円の罰金になる。それで、砂川裁判は一応のケリがつけられた。
57年58年にいろいろな動きがあって、57年暮れに革共同ができる、58年にはブントができる。本来、ブントも革共同も一緒に運動をすればよかった。ところが、つまらないことで対立した。それが60年安保闘争にも影響したし、全学連が分解していく要因を作り出した。この辺が現在にもつながる教訓があると思う。
最高裁の裁判において、当時のアメリカ大使から日本の外務大臣に対して強力な働きかけがあり、当時の最高裁長官がアメリカ大使に会って裁判内容などについて3回に渡って会って話をしている。
このことが2008年に明らかになったために、この伊達判決をもう1度蘇らせて多くの人に知ってもらいたいということで、当時の全学連や明大の多くの仲間に呼びかけて「伊達判決を生かす会」を結成した。それで日本側の情報公開請求もやったが、情報はほとんど出て来ない。この問題に対する闘いが組めないか、弁護士の先生と相談した結果、当時の最高裁長官の行為が、裁判の公正を欠く行為であり、憲法37条に明らかに反しているので再審請求をやろうということになった。それで、今年の6月17日に再審請求を行った。安倍政権が集団的自衛権を行使するにあたって、砂川裁判の最高裁判決で集団的自衛権を認めているということを引用している。これは全くインチキな話で、それがあったものですから、何とか国会開会中に間に合わせて請求を行った。
皆さんにいろんな形で感心を持ってもらいたいし、署名簿も持ってきているので、署名していない方は是非署名をよろしくお願いしたい。」
土屋さんからの報告は以上である。
来週は「集い」の後半、明大学生運動60年を振り返り、4名の方からの発言を掲載する予定である。