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植草一秀『シンデレラの運命をたどってきた日本国憲法』

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4月28日は、「主権回復の日」ではなく、「対米従属の日」であった。
以下、植草一秀様の『知られざる真実』より。
 

2013年4月29日 (月)

シンデレラの運命をたどってきた日本国憲法

安倍政権が「主権回復の日」記念式典を実施した4月28日は、日本政府が沖縄を日本から切り離した「沖縄切り捨ての日」である。

同時に、この4月28日は「対米従属の日」であって「主権回復の日」ではない。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。

このことをもって安倍政権は4月28日を「主権回復の日」としているが、これは表向きの説明でしかない。

4月28日に発効したもうひとつの重要な条約と協定がある。

日米安保条約と日米行政協定である。

「本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」」
(前泊博盛著(創元社「戦後再発見双書2」))

この条約と協定により、日本は米国の従属国家となった。

被占領国家を抜けてたどり着いたのは米国の従属国の地位であったのだ。

表向きは「主権回復の日」とされているが、実態は「対米従属の日」である。
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自民党が昨年、憲法改正草案を提示したのは4月27日であった。

憲法施行は1947年5月3日に施行された。

だから、国民の祝日である「憲法記念日」は5月3日である。

これまでの憲法試案は5月3日に提示されていた。

しかし、昨年提示された自由民主党の日本国憲法改正草案は4月27日に提示された。

安倍晋三氏は5月3日を否定し、4月28日に日本の軸を定めたいと考えているのだと思われる。

4月28日とは、「主権回復の日」ではなく「対米従属の日」なのだ。
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敗戦によって日本は連合国軍=GHQに占領下に置かれた。

そして、1952年に日本は独立を回復したとされる。

この「独立」とは何か。

「独立」を考える上で基準になる規定がある。

「ポツダム宣言」と「サンフランシスコ講和条約」である。

領土主権については「カイロ宣言」がある。

「ポツダム宣言」第12条に以下の条文がある。

十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

そして、サンフランシスコ講和条約の第6条には以下の条文が置かれた。

第六条
(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。
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これらの条文に従って解釈するならば、日本の「独立」とは、

「日本から占領軍が撤退すること」

である。

しかし、米ソの冷戦が激化するなかで、米国は日本の「独立」を許さなかった

そのために置かれたのがサンフランシスコ講和条約第6条の但し書きである。

第六条
(a)(本規定に続いて)但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん{前2文字強調}又は駐留を妨げるものではない。

また、サンフランシスコ講和条約第三条には以下の規定が置かれた。

第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
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二つの点が重要である。

ひとつは、サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復することと「引き換え」に、南西諸島および南方諸島が日本から切り離されたこと。

沖縄を切り捨てることによって日本は主権を回復したのである。

そして、沖縄を米国に提供することを提案したのが昭和天皇であった。

いわゆる「天皇メッセージ」によって、沖縄は日本から切り捨てられ、沖縄が米軍基地の島になった

もうひとつのポイントは、サンフランシスコへ講和条約第六条によって、占領軍の日本からの撤退が示されたにもかかわらず、実際には米軍が日本に居座ったこと。

米軍の日本駐留継続の根拠となったのが「日米安全保障条約」である。

この「日米安全保障条約」とともに、日本国土でありながら、日本の法令が適用されない「治外法権」を定めた「日米行政協定」が、1952年4月28日に発効した。

つまり、表向きは「主権回復」であるが、本当の核心は「米軍の駐留継続」、「沖縄の米国への提供」、「治外法権の容認」が発効したのが4月28日なのである。

すなわち、4月28日の本質は「主権回復」ではなく「対米従属」にある。

安倍晋三氏が4月28日を新たな日本の基準日と定めようとしているのは、現行の「日本国憲法」ではなく「対米従属」を日本の根本に置くことを意図したものであると考えられる。
 
 

2013年5月 2日 (木)

日本国憲法がシンデレラであるとする理由

4月29日付ブログ記事に

「シンデレラの運命をたどってきた日本国憲法」

のタイトルをつけながら、その理由を示す記述がブログ掲載部分に収録されていなかった。

深くお詫びを申し上げたい。

日本の対米隷属・対米従属を批判し、米国に対する批判を提示する人々が日本国憲法の改正に反対するのはおかしいのではないかとの意見を聞くことがある。

日本国憲法は日本がGHQの統治下にあるなかで、GHQ主導で編纂されたものであり、そのGHQの中核を担っていたのが米国だからである。

この主張は一見もっともらしいが、実は『戦後史の正体』のうち、もっとも重要な部分に対する認識が欠け落ちている見解なのだ。

それは、1945年の日本の敗戦から1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効まで、GHQによる日本占領時代が7年間続くのだが、その間のGHQの対日占領方針が不変ではなかったことだ。

敗戦から2年を経過していない1947年前半に、米国の外交基本方針は激変した。これに連動して対日占領政策の基本方針が大転換したのである。

これがいわゆる「逆コース」である。

「逆コース」前と「逆コース」後で、GHQの対日占領政策は劇的に転換した。それは一言で言えば、「民主化」から「非民主化」への転換であった。
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日本国憲法は「逆コース」前のGHQが産み出したもので、まさに「戦後民主化政策」の集大成と言えるものである。

しかし、この憲法が施行された1947年5月3日には、すでにGHQの対日占領政策の基本方針は変わっていた。

日本国憲法はその出生の段階から、完全な矛盾に包まれていたのである。

「民主化」路線を捨てて、「非民主化」の道を歩み始めた新たな日本統治者にとって、日本国憲法は言わば鬼子の存在であった。

しかし、戦後民主化の路線を敬愛する日本国民にとって、日本国憲法はかけがえのない、敬愛すべき存在になったのである。

この「戦後史の巨大な矛盾」を踏まえるならば、対米隷属・対米従属を批判する人々が日本国憲法を守ろうとし、対米隷属・対米従属の人々が日本国憲法を改正しようと行動するのは、極めて順当なことであると判断できる。
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このことを念頭に置いて私は

「シンデレラの運命をたどってきた日本国憲法」

と表現した。

「日本国憲法」は米国が日本に産み落とした嫡出子であったが、その後に不幸な運命に遭遇したのである。

「日本国憲法」の生みの親であるマッカーサー元帥が大胆に推進した「戦後民主化」の方針が米国の外交方針転換によって後ろ盾を失ったのである。

良家に生まれた美しく優しいシンデレラは、若くして両親を失い、意地の悪い継母と義姉に虐げられた。

マッカーサーの日本統治は、ある種の理想主義に基づくものであった。

大戦終了直後のGHQは、徹底した民主化と平和主義を戦後日本の統治の基本に置いた。

このなかで「日本国憲法」が編纂された。

しかし、この憲法が施行される1947年に米国の外交方針が大転換し、「日本国憲法」がその外交方針と相容れないものになった。

「日本国憲法」は米国が生み出したものであったが、施行された1947年5月にはすでに米国の新外交方針であるトルーマン・ドクトリンとは相容れぬものになったのである。
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敗戦当初のGHQ統治において、主導権を担ったのはGHQのCS=民生局であった。マッカーサー、ケーディス、マッカートなどが主導権を握り、理想主義的とも言える日本の新しい国づくりが模索された。

GHQのなかではCS=民生局が主導権を握っていた。

日本国憲法はこのラインのなかから産み出されたものである。

ところが、1947年にトルーマン大統領が新外交方針を提示する。

「ソ連封じ込め」の戦略である。

米国は日本を反共の防波堤にする方針を固めた。

連動して対日占領政策の根本が転換されたのである。

この意思を受けて新たにGHQ内部で主導権を握ったのがG2と呼ばれる参謀2部であった。参謀2部のヘッドを務めたのがチャールズ・ウィロビー少将である。

GHQ内部ではCSとG2の対立が激化し、対日占領政策をめぐっては、マッカーサー総司令官とトルーマン大統領の主張が対立した。

結局、マッカーサーはトルーマン大統領に実質的に更迭されて日本を去る。

G2は対日占領政策を大転換するために、あらゆる謀略を実行したと見られる。

これを取りまとめたのが松本清張の『日本の黒い霧』(上・下)(文春文庫)

である。

このG2と結んで、日本の対米隷属=対米従属の道を確立したのが吉田茂なのだ。

だから、吉田茂が対米隷属の父なのである。
日本における種々の政治謀略と対米隷属勢力の跳梁跋扈の原点はすべて1947年に始まる「逆コース」にある。

この流れを正確に理解しておかないと、現在の改憲問題を理解することができない。
そして、もちろん、最後にシンデレラ=日本国憲法を守るのは日本の主権者である。
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