4月28日は、60年代後半の私たち全共闘世代にとっては、沖縄を解放するための戦いの日でした。
以下、日本で不可能と思われた政権交代が起き、再び沖縄に希望が出てきたと見えた頃の拙ブログより。
写真集「絳雲そして」より
思い出の「沖縄闘争」 2010/4/19
1969年4月28日(よんにっぱ)、全国各地で沖縄反戦闘争が行われた。
私は、当時予備校に通いだしていたが、付近で配られたチラシを見て、新橋駅近辺で学生達の部隊が現れるのを多くの群衆と共に待っていた。
だが彼らはなかなか来ない。すでに山手線は止まっていた。到着前に拘束されてしまったのだろうか? と思い始めていた時、高架線となっている東京駅方面から、オキナワ カイホー !! トーソー ショーリ !! の掛け声と共に、角材で線路上をドン ドン と叩く音が聞こえてきた。
群衆の中から、歓声と共に大きな拍手が沸き起こった。そして、改札から駆け足で出てきた一人の学生が、駅構内で集会が始まったことを大声で告げると、多くの群衆が駅の中に入って行った。
私も少し不安を感じながらも、高架線上に行った。そこでは、アジテーターが、機動隊が東京駅方面から迫っていることを告げ、断固撃破する、と宣言していた。
しかし、機動隊は、予想していなかった浜松町方面からも迫ってきたため、学生達の防御態勢は一挙に崩れ、皆狭い改札口方面へと殺到した。
そして、街頭へ出撃する前に、本来闘争の核となる筈の数百人があっけなく逮捕されてしまったため、その日の戦いは銀座近辺で深夜まで続けられたものの、圧倒的多数の民衆が参加し、殆ど機動隊を寄せ付けなかった前年の1968年10月21日(じゅってんにいいち)国際反戦デーの戦いと比べると、規模としてはかなり縮小したものになってしまった。
その後、この日の戦いを「敗北」として総括した学生達が、本気で武装闘争を目指し、赤軍派を結成し、北朝鮮、アラブへ行き、また悲惨な連合赤軍事件を生み出していった。私はあの日、幸い高架線上から何とか下の通りへ降りて逮捕を免れたが、もし逮捕されていたら、彼らと同じ道を辿る可能性も少しはあったかもしれない。
略
当時、私達は沖縄「返還」闘争と言わず、沖縄「解放」闘争と主張していた。沖縄は、歴史的に見ても固有の文化を持つ独自の民族であり、日本に還ることが必ずしも沖縄の人たちの幸せに結び付くものではない、との認識からだった。返還後の沖縄の歴史を見れば、それは杞憂ではなかったと思う。
今回の「米軍基地は県外へ」との全県あげての沖縄県民の願いが実現されることを願う。
沖縄を孤立させてはいけない。
沖縄を絶望させてはいけない。
略
・・・以上・・・
まさか、四十数年後に、4.28を「主権回復の日」にしようとする政権が出てくるとは。
しかし、当時のアジ演説風に言えば、
・・・労働者学生市民の皆さん、安倍反動政権は、恥ずかしげもなく、日帝が
自らの復活を謀るために沖縄を米帝に売り渡した4月28日をもって、「主権回復の日」とする策謀を行ってきたが、その野望は、沖縄はじめ全国の
革命的民衆の怒りを燃え上がらせ、その夢はもろくも消え去った・・・
といったところでしょうか。
当時ヴェトナム反戦闘争が盛んでしたが、前線基地となっている日本の米軍基地の問題と向き合う中で、沖縄の問題は大きなテーマとなりました。そのころは、まだ本土と沖縄が自由に交流できず、その分、遠い存在ではありましたが、復帰後の今もなお本土との距離は余り縮まらなかったように思います。
本土の憲法が適用されなくなった沖縄の人たちの憲法への思いは、とても真摯なものであったと思います。やっと日本の憲法下に入ったのに、なぜ何も変わらないのか、との失望もって当然でしょう。
『沖縄の自己決定権』の確立を、沖縄・本土一体となって戦い取らなければならない時期だと思います。