明後日、11月11日には国会・霞が関大占拠行動が行われますが、45年前のこの日は、由比忠之進さんが、アメリカの北爆支持を表明した佐藤首相の訪米に対する抗議行動として、首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺を図られた日でした。由比さんは、救急搬送されましたが、翌12日に気道熱傷のため死亡されました。享年73歳でした。
由比さんの佐藤首相に宛てた抗議文。
『私が生まれたのは明治27年10月2日、……日露戦争の頃は小学校、その後中学校で忠君愛国の思想を吹き込まれて文字通り愛国者として生長しました。……
私は東京高等工業学校を出て、二、三職業を変えたのち南満洲の新興紡績会社に勤め日本の膨脹を謳歌したものでした。大東亜戦争に入るやその緒戦の戦果にすっかり酔わされて有頂点になって大陸での生活が日本の侵略によるものとの反省を全く怠っていました。
愈々敗戦と同時に不安のどん底に落され、困難な一年半を大連で過ごしましたが、やっと日本の中国侵略の罪悪に気づきました。
……敗戦時の略奪暴行をつぶさに経験した私は、ベトナムに於けるアメリカの止めどないエスカレーション、無差別の爆撃、原爆にも劣らぬ残酷極まる新兵器の使用、何の罪もない子供におよぶその犠牲、ベトナム民衆の此の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでおりますので、此の一文を差しあげる次第です。……』
当時、ヴェトナム戦争への抗議が世界各地で行われており、前月の10月8日には、佐藤首相のヴェトナム訪問に抗議する戦いの渦中で、山崎博昭さんが亡くなりました。由比さんが亡くなった日となった11月12日には、佐藤首相訪米阻止行動が行われ、私も初めてデモに参加しました。
『私が生まれたのは明治27年10月2日、……日露戦争の頃は小学校、その後中学校で忠君愛国の思想を吹き込まれて文字通り愛国者として生長しました。……
私は東京高等工業学校を出て、二、三職業を変えたのち南満洲の新興紡績会社に勤め日本の膨脹を謳歌したものでした。大東亜戦争に入るやその緒戦の戦果にすっかり酔わされて有頂点になって大陸での生活が日本の侵略によるものとの反省を全く怠っていました。
愈々敗戦と同時に不安のどん底に落され、困難な一年半を大連で過ごしましたが、やっと日本の中国侵略の罪悪に気づきました。
……敗戦時の略奪暴行をつぶさに経験した私は、ベトナムに於けるアメリカの止めどないエスカレーション、無差別の爆撃、原爆にも劣らぬ残酷極まる新兵器の使用、何の罪もない子供におよぶその犠牲、ベトナム民衆の此の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでおりますので、此の一文を差しあげる次第です。……』
当時、ヴェトナム戦争への抗議が世界各地で行われており、前月の10月8日には、佐藤首相のヴェトナム訪問に抗議する戦いの渦中で、山崎博昭さんが亡くなりました。由比さんが亡くなった日となった11月12日には、佐藤首相訪米阻止行動が行われ、私も初めてデモに参加しました。
しかし、由比さんの命をかけた抗議にも関わらず、阻止することは出来ませんでした。
由比さんの第一報を聞いた時の木村官房長官の談話
「このような悲しむべき事件が起ったのはきわめて残念だ。由比氏が無事であることを祈っている。民主主義の本質はあくまでも論議をつくし、その結果については、選挙を通じて批判することにある。いかなる形にせよ、直接行動は避けねばならない」
しかし、由比さんにとっては、選挙では何も変えられない、という絶望的な状況の中、最後に残された手段が、焼身自殺という選択だったのだと思います。
自殺直前の由比さんの走り書き(原文のまま)
『今日自殺決行となるとやっぱり興ふんすると見え一晩中抗議書作成その他で一睡もしなかったが少しも眠くなかった。朝出掛けるに当って机上を整理したのだが静(注:由比夫人)は何等疑いをかけなかったので落付いて出掛けられた。死期が迫っているにしては冷静でおられると思って居たのだが虎の門に近ずくに連れ胸がどきどきしだした。
主相公邸に近ずくに連れますますはげしくなった。やっぱり死と云う事は大変な事だ。
愈々公邸の前に来たが通行人が一杯で到底決行が出来ないので素通り、夕方迄待つ事にし遂に山王に来た。石段に掛けて之を書いた。』
『今日自殺決行となるとやっぱり興ふんすると見え一晩中抗議書作成その他で一睡もしなかったが少しも眠くなかった。朝出掛けるに当って机上を整理したのだが静(注:由比夫人)は何等疑いをかけなかったので落付いて出掛けられた。死期が迫っているにしては冷静でおられると思って居たのだが虎の門に近ずくに連れ胸がどきどきしだした。
主相公邸に近ずくに連れますますはげしくなった。やっぱり死と云う事は大変な事だ。
愈々公邸の前に来たが通行人が一杯で到底決行が出来ないので素通り、夕方迄待つ事にし遂に山王に来た。石段に掛けて之を書いた。』
その後、由比さんは、議事堂周辺からデモ隊が引き揚げるのを待って、携行したポリエチレンの瓶からガソリンを浴び、抗議文の入った鞄を道端に置いたのち、自らの服に火を点け、一瞬のうちに、上半身が火だるまとなった、といいます。
由比さんの決意は誰一人知らされていなかったため、病院へと駆け付けた家族や友人は、やり場無き怒りと悲しみに震え、茫然と立ち尽くしていたとのこと。
由比さんの遺書から
『私は本日、焼身自殺をもって佐藤首相に抗議する。当事者でない私が焼身自殺するのは物笑いのタネかも知れないが、真の世界平和とベトナム問題の早期解決を念願する人々が私の死をムダにしないことを確信する。』
当時は、南ヴェトナムの僧侶たち、また、米国でも、抗議のための焼身自殺が次々行われていました。由比さんも、一年前から計画を立てての行動だったようです。
昨年の原発事故後の日本の反原発の運動は、世界的にも優れた非暴力直接行動で行われていて、今や現実の政治にもきわめて大きな影響を与え始めていると思います。
由比さんはじめたくさんの人たちの死から、私たちは少しずつ学んできたのでしょう。
もう、抗議のために命をかけたり、命が失われてしまうほどの激しい行動をしなくても、国民が政治を動かせる時代になりつつあるのではないでしょうか。
国家が国民に強いる暴力に対抗し、より良き世界に向かう確かな希望を抱くためには、やはり、蛮性を超える非暴力的行動を貫いていくことが何より大切なのだと思います。
11月11日の行動が、さらにその道を前へ進めてくれることを願っています。
由比さんは、エスペランチストでありましたが、「エスペラント」とは、“希望する者”という意味を持つようです。