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反骨の写真家・福島菊次郎さん90歳「被災福島 最後の照準

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カメラを武器に、一生反権力・反戦の立場を貫かれている福島菊次郎さんをこちら特報部で取り上げてくれていました。以下、東京新聞・こちら特報部様より。
 
反骨の写真家 福島菊次郎さん90歳「被災福島 最後の照準」
 
 「反骨の」、あるいは「伝説の」という形容句とともに語られる報道写真家がいる。福島菊次郎さん(90)。戦後、広島の原爆被害者と出会ったことで本格的に写真を撮り始め、一貫して反権力の立場から被写体と向き合ってきた。9月には、「僕の人生の最後の取材にしたい」と東日本大震災の被災地を訪問。福島さんのレンズがこれまで捉えてきたものとは何だったのか。(上田千秋)

 山口県柳井市のJR柳井駅にほど近い二階建てアパート。福島さんは11年前から、一階の1DKの部屋で愛犬「ロク」と一緒にひっそりと暮らす。体力が衰え、ここ数年はカメラを持つ機会もほとんどなくなったが、部屋の片隅に愛機のフィルムカメラ「ニコンF」。書棚には自身の写真集や著書などがぎっしりと詰まっている。
 被災地を訪れたのは9月17、18日の2日間。来年2月に完成予定で、福島さんが主人公の映画「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳」(ドキュメンタリージャパン)の撮影のため、放射線量が高い福島市渡利地区のほか、福島県南相馬市と飯舘村に赴いた。「地震が起きた直後からテレビで見ていて、ずっと自分で撮ってみたいと思っていた。大きな被害が出る恐れがあるという点で、僕の中では原爆も原発も同義語。原爆で始まった写真家人生、原発で最後にするのもいいなと」と振り返る。

 現地では牛の姿が消えて空っぽになった牛舎の様子をカメラに収め、困窮する酪農家から生の声を聞いた。陸に打ち上げられた船の周辺は、雑草が伸び放題に伸びていた。「政府や東電が犯した過ちを夏草が隠してしまったように思えて悲しかった。原発や原爆は、もともと地球上になかった物質を使っている。そんなものを人間がコントロールできないことは六十六年前に広島と長崎で分かっていたのに、福島で3回目が起きてしまった」と語る。

 第二次大戦から復員後、古里の山口県下松市で時計店を営んでいた福島さんは1946年、「原爆ドームに雑草が生えた」という新聞記事を見つけた。「以前に住んでいたこともあったし、とにかく行ってみたくなった」と広島に足を運ぶようになる。そのうちにある被爆者の男性を紹介され、こう告げられる。「このままじゃわしは死んでも死にきれん。敵を取ってくれ。写真を撮って世界中に伝えてくれ」
 この男性ら被爆者の実態を克明に記録した写真集「ピカドン」は61年に日本写真批評家賞特別賞を受賞する。プロへの道を開くきっかけとなったが、代償も大きかった。激痛にのたうち回る被爆者にレンズを向けるうち自分の冷徹さが許せなくなり、精神を病んで入院。妻との関係も悪化して離婚を余儀なくされた。

 それでも病が癒えると、「一度しかない人生。やりがいのあることをやろう」と一念発起。3人の幼子を連れて40歳で上京し、プロになる。ベトナム反戦運動や三里塚闘争、公害の現場を中心に活躍。被写体に近接したアングルなどが評価され、ピーク時には年間計150ページ以上、月刊誌などに作品が掲載された。
 福島さんは「僕が撮ってきたのは人間と戦争、人間と政治との関係。その関係の中では、いつの場合も一番弱い底辺の人が犠牲になる。そうした人たちと、彼らを犠牲にしようとするものにカメラを向けてきた」と説く。だが、報道写真家として充実した時期は、約20年で終わりを告げた。

 経済成長とともに世の中の報道写真への関心は薄れ、出版社側も福島さんの過激なカットを敬遠するようになる。発表の機会が減り、「金と物と建前しか通用しなくなったこの国に絶望した。このまま東京にいたら腐ると思った」(福島さん)としてカメラを捨てた。1982年に瀬戸内海の無人島に入植し、一人で井戸を掘り、家を建て、自給自足の生活を始めた。
 体を壊したこともあって約一年後に近くの周防大島に居を移し、気ままな暮らしをしていたが、88年秋に再び作品を世に問うことを決心させる出来事が訪れる。胃がんで入院していた病院のベッドでテレビを見た。昭和天皇の容体が悪化したことを伝える「下血報道」が続いていた。
 「『敗戦』を『終戦』と言い換えるなど、事実をごまかし、うそにうそを重ねるようになってから日本はおかしくなった。何も総括していないのに、このまま終わりにしてはいけない」と決意。約250枚の写真を用意して始めた「戦争責任展」は、90年から3年間で全国約170カ所で開催された。

 同じころ、中国電力が建設を計画している上関原発(山口県上関町)の反対運動を撮影するようになった。運動が盛んなのは、建設予定地と海を挟んだ向かい側にある祝島。古里に近く、幼少時に何度か遊びに行った場所だった。福島さんは、祝島の住民が30年近くにわたって反対を叫び続け、今も原発が建設されていないことを基にこう唱える。
 「福島の人たちが被害者であることは間違いない。でも、原発を受け入れたことも事実。その点にまで踏み込んで考えないと、問題の本質は見えてこないのではないか。日本に原発があるのは、本気でなくそうとしなかったから。何かが起きる前に、何かを起こさないように発言していかないといけない」

 身長約160センチと小柄な福島さんの体はぼろぼろだ。88年の入院時に胃の3分の2を切除し、後に前立腺がんを患った。胆のうやすい臓も病み、体重は37キロ。本来なら抗がん剤が手放せないはずなのに、「値段が高いから飲むのはやめた。もういつ死んだっていいんだ」と冗談とも本気ともつかない口調で話す。
 そんな福島さんの日課は、衰えた目の視界がかすんで見えなくなるまで古いワープロをたたくこと。「写真だけでは伝えられることに限界がある」と2003年以降、自分が歩いてきた軌跡を記した「写らなかった戦後」シリーズ3冊を刊行。今は、今回の福島取材で見聞きしたことを少しずつ書き続けている。

 発刊の予定を問うと、「完成することはないかもしれない。僕には時間が残されていない」と寂しげな表情を見せる一方、力強い口調で続けた。
 「でも、死ぬまでワープロに向かっていると思うよ。写真でも文章でも報道写真家には発表する責任がある、そんな意識を持ってずっとやってきた。今の僕にはこれしかないからね」

 <デスクメモ>原発事故で随分と勉強をさせてもらった。もっとも身に染みたのは、「私はこう考える」と自分の立場を示し、明確に主張したときにこそ読者は敏感に反応してくれる。そこに初めて血の通った対話が生まれる事実だ。福島さんが90歳まで現役でいられる理由もここにありそう。見習わせていただきたい。(充)
 
 
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9.19脱原発集会での福島さん(山本宗補氏撮影)

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原爆ドーム
 
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                            三里塚闘争

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