3年前のNHKスペシャルで取り上げられたジョー・オダネル氏について、misaさんが丁寧な記事を書かれているので、以下、転載させて頂きます。
やっと見つけました
この写真を以前テレビで知ってから、それはずっと私の心の中にありました。
でも、カメラマンの名前も忘れてしまって、どうやって探そうかと悩んでたんです。
やっぱり、どなたかが導いて下さったようですね。見つけられた事に感謝します![¥ɥ¥ɥ]()
教科書にも載った事があるみたいなので、ご存知の方も多いと思います。

でも、カメラマンの名前も忘れてしまって、どうやって探そうかと悩んでたんです。
やっぱり、どなたかが導いて下さったようですね。見つけられた事に感謝します

教科書にも載った事があるみたいなので、ご存知の方も多いと思います。
『焼き場に立つ少年』
この写真は、1945年原爆投下直後の長崎において、アメリカ軍の報道写真家ジョー・オダネル氏によって撮影されたものです。
彼は、当時をこう語りました。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。」
オダネル氏は少年に声をかけたくても出来なかったそうです。
この1枚の写真が、何も言わなくても全てを語っています。
なぜなら、私たちは少年の思いを感じる事が出来るからです。
この写真を撮ったオダネル氏は、真珠湾攻撃を受けて、日本に憎しみを抱いて19歳で軍に志願したそうです。
先日話題にしたばかりですが、ルーズベルト大統領が取った心理作戦は、まさしく彼にも影響を与えていた事になります。
オダネル氏は、やがて空爆調査団の公式カメラマンとして原爆投下の1ヶ月後の長崎で撮影を始めました。
軍からは許可なく人物の撮影をしてはならないと言われていたそうです。
しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受け、その姿を写真に収めてゆきました。
彼は、当時をこう語りました。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。」
オダネル氏は少年に声をかけたくても出来なかったそうです。
この1枚の写真が、何も言わなくても全てを語っています。
なぜなら、私たちは少年の思いを感じる事が出来るからです。
この写真を撮ったオダネル氏は、真珠湾攻撃を受けて、日本に憎しみを抱いて19歳で軍に志願したそうです。
先日話題にしたばかりですが、ルーズベルト大統領が取った心理作戦は、まさしく彼にも影響を与えていた事になります。
オダネル氏は、やがて空爆調査団の公式カメラマンとして原爆投下の1ヶ月後の長崎で撮影を始めました。
軍からは許可なく人物の撮影をしてはならないと言われていたそうです。
しかし、彼は悲惨な光景に衝撃を受け、その姿を写真に収めてゆきました。
そして、7ヶ月間長崎・広島を撮影した後、それらの人物が写った写真を、秘密裏に母国の自宅に持ち帰りましたが、悲惨な光景は頭から離れる事はありませんでした。
自分の国がした行為をどうしても正当化する事が出来ず、苦渋の日々にさいなまれ、ついに、苦しみから逃れるために全ての写真をトランクの中に封印してしまったと言います。
その後彼はアメリカ情報局に勤め、大統領の専属カメラマンとして幸せな日々を送っていたそうです。
中でも暗殺されたケネディの棺の前で、息子が敬礼している写真は有名になりました。
しかしある日、彼は教会で原爆被害者の写真を貼付けられたキリスト像を目にした時、かつての衝撃がよみがえって来たのでした
動画はこちら

「私は何かしなければと痛烈に感じた。まさに啓示だった。自分も撮影した真実を伝えなければならない。」
(動画で、彼の悲痛な声を是非聞いて下さい。この映像を発見した事から、私はこの記事を書くことができました。)
そして、43年の封印を解き、写真を公開する事を決意します。
けれどもアメリカでは受け入れられない行為でした。
皆から嫌がらせを受け、妻までもが去って行きました。
それでも彼は、諦める事なく「私の投げた一石が小さな波紋を作り、やがてそれが世界へと広がってゆくだろう」と強い信念を持って核廃絶の活動を続けていったのでした。
活動の中、この写真の方とは再会できたそうです。
皆から嫌がらせを受け、妻までもが去って行きました。
それでも彼は、諦める事なく「私の投げた一石が小さな波紋を作り、やがてそれが世界へと広がってゆくだろう」と強い信念を持って核廃絶の活動を続けていったのでした。
活動の中、この写真の方とは再会できたそうです。
でもオダネル氏が、どうしても会いたいと探した「少年」は、残念ながら望みは叶いませんでした。
そしてオダネル氏は、2007年、奇しくも長崎原爆投下と同じ日に脳卒中で85歳で亡くなったそうです。
彼亡き後、彼の遺志を継ぐ息子さんによって、オダネル氏の回想録の入ったテープが発見されました。
おそらく、写真を公開しても、アメリカの民衆には分かってもらえなかった時のものでしょう。
このテープの中で彼はこう言っています。
「誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちをなかった事にできなかった。
退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。
私は死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は中国や韓国に対してひどい事をした。
しかし、あの小さな子供たちが何かしただろうか。
戦争に勝つ為に、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。
1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。
それは100年たっても間違いであり続ける。
絶対に間違っている、絶対に。
歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。」
動画はこちら (こちらも 彼の肉声を是非お聞き下さい!)
私は、ブログをやって来て今日ほど良かったと思う日はありません。
前回の山口さんとオダネル氏の遺志を、ダブルでお伝えする事が出来ました。
もちろん、私の知らない所で、他にも沢山お伝えするべき方はおいでだと思います。
しかし、日本をあれだけ憎んでいたアメリカ人の彼の言葉とあの1枚の写真で、人間の心を持つ人なら、絶対熱くなる想いがあるはずです。
それをお伝えする事が出来た事に感謝します。
この写真をどうかいつまでも、胸にしまっておいて下さい。
そして、美輪明宏さんも泣くくらいの惨状がありました。
こちらの動画も合わせてご覧になって下さい.。
こちらの動画も合わせてご覧になって下さい.。
・・・以上・・・
misaさんは、その後もブログでオダネル氏の記事を書かれていますので、是非お読みください。
国と国が国民の命を奪い合い、蛮性が支配する戦争の中で、なお、人としての気高さを失わないでいることは、実際にはなかなか難しいことなのだと思います。日本も核兵器を開発していたようですが、もし、逆の立場だったら、私たちは、彼のような行動をとれたのだろうか、とも思ってしまいますが、核や戦争をなくしていくための意識を、多くの先人たちから学び、また、想像力を培いながら、しっかり身につけていかなければ、と思います。