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吉本隆明『戦争中は左翼も「戦争大肯定」だった』

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左翼が守ったのは、自らの党派性だけだったのでは。
以下、吉本隆明氏の「小林よしのり『戦争論』を批判する」(1999年7月ぶんか社刊)より。
 
 
戦争中は左翼も「戦争大肯定」だった
 
――小林よしのりは『戦争論』の中で、インドのパル判事が述べたこんな言葉を引用しています。それは、「ハルノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクでも (ほこ )を取ってアメリカに立ち向かうだろう」という言葉です。ハルは当時のアメリカの国務長官です。1941年(昭和16年)、日本に突きつけられたハルノートには、「シナ及びインドシナからの日本軍及び警察の全面撤退」「日独伊三国同盟の死文化」などが盛り込まれていました。また、当時、アメリカ、イギリス、中国、オランダの四か国は、いわゆる〝ABCD包囲網〟を築き、日本への石油や鉄の供給を差し止めました。そのため、日本はやむをえず開戦に踏み切った。それで、小林よしのりは「あれは自衛戦争だった」と主張するわけですが、それは小林よしのりに限らず、いまだに根強くある主張ですね?
 
吉本 ええ。当時、ぼくは実感的にそうだと思っていましたし、今でもある程度はそうですね。今、アメリカはイラクに対して軍事攻撃を仕掛けたり、経済封鎖をしたりして、イラクを追い詰めていますが、あれと同じことを日本に対してやったんです。当時、アメリカは日本に対して、「満州国を撤廃しろ」「日本軍は中国大陸から全面撤退しろ」とも要求してきました。それは、日本が20年も30年もかけて積み上げてきた歴史的な歩みをすべて否定するものでした。〝白紙に戻しちゃえ〟という要求だったわけです。「そんな要求をのむことは、とうてい不可能だ」「承服できないよ」というのが、当時の一般的な国民感情だったと思います。僕もそうでした。だから、志賀直哉や谷崎潤一郎といった文学界の大長老をはじめ、みんな、戦争大肯定だったんです。当時の新聞を読めばわかりますが、新聞論調も朝日新聞をはじめ戦争大肯定でした。みんな、「戦争をやれ、やれ」だったんです。気分としては、「もう、やっちゃうしかない」と。日本中、そうでしたね
 
――当時の日本国民の圧倒的多数は、インテリも含めて、「大東亜共栄圏の確立」という日本政府のプロパガンダをさして疑いもせず、そのまま信じたわけですか?
 
吉本 ええ、三木清のような進歩派も含めて、そうです。当時、僕を含め、多くの国民がそれをまっとうに信じたと思います。今にして思えば、そんなスローガンを掲げたって通用しない、世界の国々が本気でそれを信じると思うほうがどうかしているってことになっちゃうんですけどね。当時、日本はまだ近代文明にそれほど浴していない後進国にすぎませんでしたから、欧米の先進国にしてみれば、「何を寝ぼけたことをいってやがる」と思ったに違いないんです。
 今でいえば、韓国の統一教会がいっているのと同じようなことを、当時の日本はいっていたわけです。統一教会は、「イエス・キリストが再臨する東方の国とは韓国にほかならない」とか、「韓国の民族が新たに選民となる」とかいっています。現在の僕らからすれば、「とんでもねえことをいうバカ野郎だ!」「なんという夜郎自大なバカ話だ!」ってことになっちゃうわけですよ。そんなバカ話が通用するはずはないんですけどね。
 
――左翼も当時は戦争肯定だったのですか?
 
吉本 左翼だって、そうですよ。たとえば、三木清なんかにしても、「大東亜共栄圏の確立」といういい方はしないものの、「東亜共同体」という言葉を使って、戦争を肯定していました。「大東亜共栄圏の確立」とか、「東亜の解放」とかというのは、理念としてはけっして悪いものじゃなかったですからね。ほとんどの左翼はそうしたスローガンにイチコロで、戦争賛成だったんです。
 
――戦争中、共産党幹部の徳田球一なんかは監獄に入っていましたね。あれは、どうだったんですか?監獄に入れられるくらいには、「戦争反対」を唱えていたのですか?
 
吉本 それは、実はいろいろ裏話がありましてね。戦争中、監獄に入れられていたのは、徳田球一や志賀義雄といった共産党幹部ですが、獄中で、「おい、そろそろいい加減、戦争を黙認、肯定しようか」と話し合っていたという伝説があるんですから。要するに、そんな程度で、何もしていないんですよ。獄中から、「戦争反対の活動をやれ」という指示を出していたわけでもないですしね。〝ただ監獄に入っていた〟というだけなんです。
 宮本顕治は徳田球一や志賀義雄よりも若い世代の共産党幹部ですが、戦争中、宮本顕治が監獄に入っていたことにしても、別に反戦活動をしていたからじゃない、評論家の間では悪口が流布されていますが、「あれはリンチ殺人事件の容疑で監獄に入れられていただけだ」って。戦後、宮本顕治は監獄から出てきて大学を講演してまわり、「監獄に入れられていたとき、自分は記号法という暗号を使って獄中から外に連絡をとり、反戦活動を指示していた」というようなことをいっていました。でも、僕らはそんなことを全然信じなかったですね。「戦争が終わり、監獄から出てきて、急に偉そうなことをいってるけど、戦争中は何もしなかったじゃないか」っていうのが、僕らの思いでした。
 
――戦争中は左翼も戦争肯定だった。にもかかわらず、戦後左翼は戦争中の自分たちのそうした言説が一体なんだったのか、きちんと反省することもなく、サッサと軍国主義批判に転じた。戦後左翼のそうした変わり身の早さ、虫のいい変節というものは、やはり批判されてしかるべきだと思いますが
 
吉本 まったく、そうです。文学者にも「この野郎!」ってやつがいて、戦後、僕はカンカンに怒ったんです。敗戦直後、僕が書いた『文学者の戦争責任論』が、それです。ぼくがカンカンに怒った相手というのは、戦後民主主義とか平和主義とかを唱えている連中ですよ。左翼・共産党系の文学者でいえば、小田切秀雄とかね。小田切秀雄なんかは、「醤油を飲んで徴兵逃れをした。それが文学者の抵抗なんだ」という言い草まで、「戦争反対」の言説に含めそれ祖を戦争中の「抵抗」といったんですからね。僕はよく知りませんが、醤油を飲むと不整脈になるそうなんです。
 僕は戦争中は軍国青年で、本土決戦も辞さす、死ぬまで戦う気でいましたから、「醤油を飲んで徴兵逃れをした」くらいで「抵抗した」なんて、よくもまあ、そんなことをしゃあしゃあといえるもんだ、「なんて野郎だ!」って思いました。気に食わねえ。「こんなやつとは生涯妥協しないぞ」と思って、今も妥協していませんけどね。
 その一方、戦争中、自分は文学に夢中で戦争にはあまり関わらなかったという文学者たちもいました。中村真一郎とか加藤周一とかといった連中です。彼らは「文学一点張りで戦争には関心がなかった」といっただけですが、こんなのさえも、戦後左翼や戦後民主主義者たちは〝文学者の抵抗〟のうちに入れちゃったんですから、呆れましたね。だから、そのへんは、小林よしのりが『戦争論』で憤っている心情というのは、よくわかるんです

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