日本は、原爆と原発という核による大きな被害を受けることとなりましたが、原爆を投下された体験を持ちながら、何故原発が持ち込まれてしまったのか、その背景を、以下、先日発売された孫崎亨氏の『戦後史』の正体(174から177ページ)より。
日本で原子力開発が始まったのは、米国の意向を反映したものでした。その理由は、第五福竜丸の被爆によって日本人が、急速に反原子力、反米に動くのを阻止することでした
2011年3月11日、東日本地震が発生し、福島原子力発電所で事故が起こりました。放射線の放出で、一時は東京を含む東日本全域が居住できなくなる可能性が心配されました。
これほど危険な原発が、地震大国の日本に合計54基も建設されてきました。どうして、こんなことが起こったのでしょうか。
日本に原子力発電所を作る動きは1950年代に確立しています。日本の経済はまだ高度成長が始まる前の段階で、安い石油が自由に手に入る時代です。なのに1955年12月に原子力基本法が設立し、翌56年1月に原子力委員会が設置され、原子力発電への流れが本格化します。いったいそれはなぜだったのでしょう。
それは米国の意向を反映したものでした。
1950年代、原子力開発に積極的に関与した人物に仲宗根康弘氏と正力松太郎氏がいます。ふたりとも米国と強い結びつきをもっています。CIAは正力氏にポダムというコードネームをあたえて利用しようとしていました。
1954年3月1日、米国はマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行ないました。そのとき、ちょうど第五福竜丸が実験の風下85マイルの地点で、マグロのトロール漁を行なっていました。その結果、汚染された灰と雨が第五福竜丸に降りかかったのです。
3月14日、船は帰港します。すでに乗組員には被曝の症状が現れており、「死の灰をあびた」と報道されます。9月23日、久保山無線長が死亡しました。
この被爆事件に関して、米国の対応にはいくつもの問題がありました。まず、被曝した乗組員の治療には、死の灰の成分を知ることが不可欠ですが、米側は教えてくれません。医師が米国から派遣されてきましたが、治療ではなく、調査が目的でした。米国は被爆で病気が出たことを認めず、補償額もきわめてわずかな金額しか示しませんでした。ところが吉田首相は米国に抗議することをためらいます。その結果、第五福竜丸事件は吉田政権の基盤を揺るがし、米国への批判が一気に噴出することになりました。
ここで動き始めるのが正力松太郎です。
この本で以前、柴田秀利という人物に言及したのをご記憶でしょうか。GHQ担当の読売新聞記者で、片山内閣発足時、首相を前に「占領下の日本政府などというものはあってなきがごときものです」とレクチャーした人物です。彼はその後、正力松太郎の懐刀として活躍します。彼の著書『マスコミ回遊記』を見てみたいと思います。
「第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被爆します。
これを契機に、杉並区の女性が開始した原水爆実験反対の署名運動はまたたくまに3000万人の賛同を得、運動は燎原の火のごとく全国に広がった。このままほっておいたら営々として築きあげてきたアメリカとの友好的な関係に決定的な破局をまねく。
ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々かつづいた。そのときアメリカを代表して出てきたのが、ワトスンという肩書を明かさない男だった。
数日後、私〔柴田〕は結論を告げた。『日本には昔から毒は毒をもって制するということわざがある。原子力は双刃の剣だ。原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的にうたいあげ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない』と熱弁をふるった。この一言に彼〔ワトソン〕の瞳が輝いた。
『よろしい。柴田さんそれで行こう!』彼の手が私の肩をたたき、ギュッと抱きしめた。
政府間でなく、あくまでも民間協力の線で「原子力平和利用使節団」の名のもとに、日本に送るよう彼にハッパをかけた。
昭和30年が元旦の紙面を飾る社告を出して天下に公表した」
このように読売新聞が中心になって、日本国内に原子力平和利用の動きが展開されていきます。正力松太郎はその後入閣し、初代の原子力委員会委員長になります。
1955年末には「原子力平和利用博覧会」が、11月1日から12月12日までの六週間にわたって開かれ大成功を収めます。42日間の会期を終えたときには、博覧会の総入場者数(読売新聞発表)は約37万人にのぼっていました。翌1956年元旦には原子力委員会が発足し、湯川秀樹、石川一郎(経団連会長)、藤岡由夫、有沢広巳が委員となりました。
こうして、正力松太郎がしかけた原子力発電所への道は大成功を収めます。柴田秀利も重要な役割をはたしました。
柴田氏は1985年12月、自叙伝を出版しました。占領下から約40年間、米国との密接な関係を生かして、日本の政財界とさまざまな交流を持った人物でした。彼は自叙伝出版の翌年、10月にゴルフに招待されているといって米国に旅行に出かけ、11月にフロリダでゴルフ中に死んでいます。
仲宗根康弘氏が法律や予算を整備し、日本に原子力発電所を作る基礎を作ります
略
・・・以上・・・
やはり、日本に原発が持ち込まれた経緯は、反原水爆運動、反米感情、を懐柔するため、だったようです。それゆえ、元々、安全性などは二の次だったのではないでしょうか。読売グループは事故後も再稼働を強力に推し進めようとしていますが、まず真摯に反省すべき立場ではないのでしょうか。